


120周年の 感謝を込めて ともに未来へ
ISHIMITSU
HISTORY
創業120周年を迎える
ISHIMITSUの軌跡
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石光のはじまり
創業者・石光季男
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1906
創業
創業者故石光季男が単身渡米。日系移民に日本食を届けるためにロサンゼルスにおいて創業。
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1909
神戸支店 開設
日本商品の仕入れのため神戸市に支店を開設。
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1922
本店を神戸市に移転
本店を神戸市に移転し、日本でのコーヒー商売が始まる。
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1951
石光季男商店 設立
設立 石光季男商店。戦後、貿易再開とともに設立し、輸入食料品の取り扱いを再開。
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1953
東京出張所 開設
東京出張所(のちの東京支店)開設。
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1963
社名変更
社名を「石光商事株式会社」と変更。
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1964
福岡支店 開設
岡崎茂樹商店を吸収し、福岡支店を開設。
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1968
名古屋営業所 開設
名古屋営業所(のちの名古屋支店)を開設。
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1972
東京アライドコーヒー
ロースターズ株式会社 開設東京アライドコーヒーロースターズ㈱を設立。
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1973
関西アライドコーヒー
ロースターズ株式会社 開設関西アライドコーヒーロースターズ㈱を設立。
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1976
札幌営業所 開設
札幌営業所(のちの札幌支店)を開設。
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1980
サイコー会発足
現在の新サイコー会の原点となる「サイコー会」が発足。
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1995
阪神・淡路大震災
阪神・淡路大震災により本社隣接の物流センター倒壊。
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1999
ユーエスフーズ
子会社化コーヒー生豆小分け業者 ユーエスフーズ㈱(現連結子会社) を子会社化。
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2002
JASDAQ市場に上場
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2012
石光商貿(上海)有限公司 設立
中華人民共和国に石光商貿(上海)有限公司(現連結子会社)を設立。同国でのコーヒー文化・日本食文化の普及に努める。
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2013
THAI ISHIMITSU CO.,LTD. 設立
タイ王国にTHAI ISHIMITSU CO.,LTD.(現連結子会社)を設立。同国でのコーヒー文化・日本食文化の普及に努める。
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2019
A Tosh Ishimitsu Beverages
India Private Limited 設立インド共和国にA.Tosh Ishimitsu Beverages India Private Limited(現連結子会社)を設立。インドの伝統に日本の技術を融合させた紅茶製品の製造を進める。
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2020
東京アライドコーヒーロースターズ
株式会社 連結子会社化持分法適用関連会社であった東京アライドコーヒーロースターズ㈱を連結子会社化。
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2022
スタンダード市場へ移行
JASDAQ市場からスタンダード市場へ移行。
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2023
Atariya-Ishimitsu UK Limited 設立
英国にAtariya-Ishimitsu UK Limited(現持分法適用関連会社)を設立。
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2024
東京アライドコーヒーロースターズと
関西アライドコーヒーロースターズを合併企業力向上のため、東京アライドコーヒーロースターズ㈱と関西アライドコーヒーロースターズ㈱を統合。社名はアライドコーヒーロースターズ㈱(現連結子会社)。
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2026
創業120周年を迎える
これからも皆様の食を支え、世界の食の幸せに貢献します。
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0. 石光商事のはじまり
石光商事の歴史は、創業者・石光季男の大志と並外れた行動力、そして「誠心誠意」というビジネスへの真摯な姿勢から始まった。彼の歩みは、後の石光商事の国際的な事業展開と、変化を恐れない挑戦の精神を象徴している。
1883年(明治16年)、広島の貧しい農家に生まれた季男は、幼くして両親を亡くすという逆境に見舞われた。しかし、彼は環境に屈することなく、人一倍の向学心を持ち続けた。特に、偶然出会った「英語」という未知の言葉に魅了され、将来を見据えた学びを自身の財産とした。
17歳となった1900年(明治33年)、季男はさらなる成長を求め、単身神戸へと渡る。活気あふれる港町での生活は、彼に新たな視野をもたらした。ドイツ人経営の貿易商社に就職したことは、石光商事のルーツにおける極めて重要な転機となる。ここで彼は、昼は貿易実務の最前線で国際的な商取引のノウハウを吸収し、夜は夜間学校で英語力を磨き続けた。この6年間の経験を通じて、季男は単なる語学力だけでなく、海外ビジネスの仕組みや商習慣を肌で学び、後の事業展開に不可欠な基盤を築き上げた。月給の半分を貯蓄に回すという堅実な姿勢は、彼の未来への強い意志と、来るべき事業資金を確保する先見の明を物語る。
そして1906年(明治39年)、23歳になった季男は、神戸で培った英語力、貿易知識、そして貯えを手に、新天地アメリカ・ロサンゼルスへと渡航した。これは、今日の石光商事のビジネスにつながる大きな第一歩である。長兄に経営を任された現地の食料品店、この小さな店から、季男の「誠心誠意」と創意工夫を凝らしたビジネスが展開されていく。石光商事の歴史の幕開けである。 -
1. 創業、そしてコーヒーとの出会い
1906年(明治39年)、アメリカ・ロサンゼルスで食料品店を引き継いだ石光季男は従来の店舗型ビジネスに留まらず、貯金を投じて馬車を購入。商品を顧客の戸口まで直接届ける「戸別行商」を開始した。酒類販売ライセンスも取得し品揃えを拡充することで、在米日本人家庭の多様なニーズに応え、「誠心誠意」の商いを通じて顧客との強固な信頼関係を築き、事業の基盤を確立した。
次の大きな転機は、1910年(明治43年)。在米日本人の生活に不可欠な豆腐や味噌などの日本食材の安定供給を目指し、帰国していた長兄に神戸で支店を設立してもらうことで、アメリカへの輸入ルートを確立。これにより、「石光商店」は単なる小売店から、国際的な貿易機能を持ち合わせる企業へと発展を遂げ、その名声は西海岸一帯に知られることとなった。
さらに、事業拡大に伴う体制の強化も重要な転機となった。季男は英語と簿記の知識を持つ滋子を伴侶に迎え、彼女は商品の仕入れ、店員指導、帳簿付けといった経営の中核を担った。滋子の参画は、石光商店の運営効率を高めただけでなく、在米日本人からの通訳や書類作成の依頼にも対応することで、地域社会における石光商店の提供価値と信頼を一層高める結果となった。
そして1919年(大正8年)、石光商店は現在の主力事業であるコーヒー事業へと大きく舵を切る。第一次世界大戦後の好景気とアメリカで高まる禁酒運動の潮流の中、現地の人々は一杯のコーヒーに憩いのひとときを求めていた。豊かで文化的な独特の香りはいつか日本人の心もとらえるに違いない。今後日本で商売をすることがあるとすれば、伸びるのはコーヒー、そして洋食文化なのではないか。そう確信した季男は独学でコーヒーを研究し、その思いを日増しに強めていく。思い立ったらすぐ実行。同年のうちにサンフランシスコの目抜き通りにコーヒーとお茶の専門店をオープン。日本からの輸入食材も揃えることで、ロサンゼルス店と合わせて西海岸に2つの拠点を持ち、事業は新たな成長軌道に乗った。 -
2. 「コーヒーの石光」、そして休業へ
アメリカで順調に発展したビジネスであったが、さまざまな環境を鑑みて、現地の店は従業員に託し、日本へ帰国することを決断した。1922年(大正11年)のことだった。神戸港は開港50年を迎え、異国からのモノや人が大きなうねりを持って流れ込む活気に満ちていた。この国際貿易の一大拠点である神戸に「石光季男商店」の本店を構え、食料品や雑貨の輸出入と販売を手がけた。関東大震災が起こり、横浜から神戸に本拠を移す会社も多く、神戸はますます発展。それとも相まり事業は拡大、大豆や雑穀類を中心とした取引で着実に業績を伸ばしていった。
この頃から、石光商店の将来を決定づけるコーヒー生豆の取り扱いがはじまる。まだコーヒーが一般的ではなかった大正時代、季男はアメリカでの経験からコーヒー市場の将来性に大きな希望を抱いていた。三井物産の特約店として同社経由でブラジル産コーヒー生豆を輸入、他の国のコーヒー生豆はサンフランシスコの支店を通じて輸入を行った。帰国した同年(1922年)のうちに、石光商店のコーヒー販売高は全国首位に上り詰めた。
昭和に入ると、アメリカから持ち帰ったコーヒーの焙煎機やミルを携え、生豆をセットにして従業員と共に北海道から九州まで全国を巡回。「コーヒーのおいしさと淹れ方を知ってもらう」という情熱的な営業で、日本中にコーヒー文化を広めるパイオニアとしての地位を確立する。神戸の「ミルクホール」文化とも連動し、コーヒーは庶民の社交場に欠かせない存在となり、石光商店は「コーヒーの石光」と称されるようになった。
しかし、この順風満帆な流れは1937年(昭和12年)の日中事変勃発を境に一変する。コーヒー豆の輸入は政府によって制限され、やがて完全に途絶。庶民の楽しみであったコーヒーは姿を消し、代わりに代用コーヒー*が流行した。戦況が厳しさを増し第二次世界大戦へと突入すると、季男が築き上げたアメリカの支店は没収され、国内の本店も輸出入がストップし業務は停滞。従業員も減少し、最終的に国策の統制会社(日本珈琲株式会社)取締役に名を連ねるものの、商売は立ち行かなくなる。
*ユリネやサツマイモを焙煎して粉にしたもので、見た目だけはコーヒーのようであったという。 -
3. 再出発。個人商店から会社組織へ
戦後、少しずつ世の中が落ち着きを取り戻していく。しかし、一度は世の中を魅了したコーヒーの香りが街中から消えてしまったことへの影響は少なくなかった。輸入はストップしたままで、コーヒー豆は絶対的に不足。終戦から2~3年が経過してもまだ市場に出回ることはなかった。季男のもとへはかつての得意先が生豆を求めて次々と訪れた。
この強い需要に応える形で、1951年(昭和26年)、季男は商売の再開を決意。これを機に、石光商店は個人商店から資本金100万円の「株式会社石光季男商店」へと組織を一新し再出発を切った。コーヒーの輸入・販売に特化した事業は、当時の時代背景と合致し、社員数名で急速に業績を伸ばしていった。
輸入が制限される状況下ではあったが、少ない在庫を小分けに販売し、遠方の得意先にも自転車で配達するなど、徹底した顧客対応と創意工夫を重ねた。コーヒーが再び贅沢品となり、喫茶店が憧れの場所となる中、神戸での喫茶店文化の早期立ち上がりも後押しとなり、コーヒー専門商社としての信頼を確立。1953年(昭和28年)には神戸に新社屋を建設し、同年3月には将来性を見込んで東京に出張所を開設。わずか4年後には東京で自社ビルを新築するなど、全国展開への足がかりを固めていった。 -
4. 食品という新たな柱 石光商事株式会社へ
昭和30年代に入り、日本が高度経済成長期を迎え、1960年(昭和35年)には長らく待ち望まれたコーヒー輸入自由化が実現した。これによりコーヒーは一般に広く普及し、石光季男商店の事業は一層活況を呈した。しかし、自由化による競争激化は利益率の低下を招き、「コーヒーの次」を見据える新たな挑戦が始まった。
主な得意先であるコーヒー卸売業者が扱う他商品に着目し、コーヒーと同じ流通経路でみかん缶詰から食品部門へ参入。「コーヒーの石光」はやがて、喫茶店で使うものなら何でも揃う商社へと進化を遂げた。同時に、インスタントコーヒーの需要増大に対応するため、瓶詰め事業も設立しギフトセットも人気を博した。
1963年(昭和38年)には「石光商事株式会社」へ社名変更し、福岡・名古屋にも拠点を設け全国展開を加速させた。
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5. 挑戦 食品専門商社の石光
1970年(昭和45年)には資本金1億円を突破し、コーヒーと食品を二本柱として順調に成長を続けていた。その間、革新的な挑戦も重ねる。1972年(昭和47年)には初の共同出資会社となる東京アライドコーヒーロースターズ株式会社を設立し、翌年には関西アライドコーヒーロースターズ株式会社も設立した。この2社は、それぞれ東京の取引先、関西の取引先に出資を呼びかけてつくったコーヒー焙煎企業で、焙煎業務を共同工場に集約し、各業者が販売に注力することを企図した画期的な試みだった。当初は稼働が低調だったものの、缶コーヒーの台頭により活路を見出す。急増する缶コーヒー需要に伴い、メーカーからの注文が東西の共同焙煎工場に殺到し予測を超えた成長を遂げた。


また、1973年(昭和48年)には東京支店の1階で喫茶店「シーカフェ」を開始。アンテナショップとして本業に役立つデータの収集・提供を課した。後に当時注目され始めていたイタリア料理を提供するレストランへ転換し、業績を伸長させた。
1977年(昭和52年)には創業者・石光季男が逝去し、一つの時代の転換期を迎える。
同時期、円高を契機に食品輸入が急増し「コスモ」ブランドを確立。コーヒーだけでなく食品分野での存在感を高め「食品専門商社の石光」へと進化を遂げた。
昭和50年代後半には喫茶店の数がピークを迎え、集会所の役割も担うほどコーヒー文化が定着し、家庭でもインスタントコーヒーが普及し広く親しまれた。この追い風を受け、石光は販売網を全国へ拡大。1985年(昭和60年)には物流合理化のための事業を設立し、迅速かつ正確な物流網を整備。 -
サイコー会発足
1980年「サイコー会」が発足した。これは当社とお取引先様との間で強固なパートナーシップを築き、ともに持続的な成長を目指すための重要な取り組みだった。設立総会には64社ものお取引先様が参加し、活発な交流が始まった。
その後、時代とともに役割を見直し、2021年には「新サイコー会」と名称を改め、活動を再定義する形で新たなスタートを切った。
現在もこの会は継続しており、当社の各事業部が主催となり、毎年定期的に開催されている。 -
6. 震災からの復興。安心と安全
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災は企業史における極めて大きな出来事だった。本社に隣接する物流センターが倒壊するなど甚大な被害を受けながらも、業務の長期滞りを防ぎ、迅速な復旧へと舵を切った。震災後の神戸市の区画整理事業への協力と連動し、1999年(平成11年)には「HAT神戸」という新たなまちの玄関口に、個性的なデザインの新本社ビルを完成させた。この新本社は最新のオフィス設備を備え、業務効率向上と近代化を促す絶好の機会となった。また、1997年(平成9年)には、関西の得意先への地理的優位性と高速道路網へのアクセスの良さを考慮し、物流センターを大阪へ移転。戦略的な拠点再編を通じて、事業基盤の強化を図った。
さらに、1996年(平成8年)のO157集団発生以降、食品業界で安全性が最重要視されるようになったことも品質管理体制を見直す大きな契機となった。この環境変化にいち早く対応し、2000年(平成12年)には製品部門と関西アライドコーヒーロースターズでISO9001と9002の認証を取得。翌2001年(平成13年)には食品部門でもISO9001認証を獲得し、これまで以上に厳格な品質管理とコンプライアンスを徹底する体制を構築した。これらの動きは、食品専門商社としての安全性と信頼性を外部に示す重要なアピールとなり、震災からの復興と合わせて、新たな企業価値を確立する転換点となった。 -
7. JASDAQ市場への上場と100周年。さらなる飛躍へ
2000年代初頭はまた大きな転換期を迎えた。その重要な転機の一つが、ジャスダック市場への上場だ。これは、「開かれた会社」を目指す経営戦略の中核を成し、資本金増強による事業拡大だけでなく、市場での知名度向上や、採用活動における志望者の増加といった多角的な効果をもたらした。また、従業員持株会が1995年(平成7年)に発足し、社員一人ひとりが会社を支え、ともに成長する意識を強固にした。
上場と時を同じくして、経営の効率化とスピードアップを図るための組織改革も進んだ。コーヒー、飲料、食品の各部門に加え、社長直轄の組織や管理部門、全国の支店が効果的に連携し、きめ細やかな事業展開とスピーディーな業務遂行を実現した。
そして2006年(平成18年)、創業100周年という大きな節目を迎え、次なる100年を見据えた明確なビジョンを打ち出した。事業領域は「コーヒー飲料事業」「食品事業」「海外事業」の3本の柱に集約。コーヒー飲料事業では、調達力強化や製品の新たな価値追求と品質管理の徹底などに注力。食品事業では、加工食品群に加え食品原料ビジネスを展開し、高付加価値商品の開発やグローバルな製品開発を進めた。さらに、海外ビジネスを統合し、本格的な海外事業として立ち上げることで、国際競争力の強化を図った。
「原料に強いマーチャンダイザー」と位置づけ、「THE GLOBAL FOOD MERCHANDISER」の完成を目指していく。これは、世界中から最適な原料を選定し、加工から流通、販売促進までを一貫して手掛けることで、消費者に「おいしさ」と「食の幸せ」を届けるという強い意思の表れだ。食品を扱う企業としての責任感を胸に、研究開発への積極的な投資を続け、経営理念「ともに考え、ともに働き、ともに栄えよう」の実現を通じて、社員の成長と社会への貢献を目指す、新たな歴史のページを開いた。
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